「権利意識を持とう」なんて、まるで中学校の教科書に出てきそうな言葉だけれど、はたしてどれほどの人が、この意味をきちんと理解し行動しているだろう。特に女性は、男女平等の教育を受けてきたにもかかわらず、職場でも家庭の中でも、当然のように権利がない場合が多い。なのに、前向きに変えていこうと努力することもなく「こんなものよ」と現状維持のまま愚痴ばかり…
かくいう私も、今の職場に来るまでは、意見や感想を述べることはあっても、権利を主張するなんて、とんでもなかった。自分の本当の気持ちを押し込めて、いつも目立たないように行動してきた。ずっと書き続けてきた私の日記の中には、矛盾や悔しさ、不信感がいっぱいだったような気がする。いつのまにか、「世の中って、人間って、こんなものよ」と拗ねていたのかもしれない。
そのせいか、自分の思ったことをはっきり言ったり行動する人を見ると羨ましく思う反面、そのことで衝突が起きたり、周囲の空気が重くなると、その人がとてもわがままに思えてしかたなかった。「少しがまんすればうまくいくのに、どうして譲ることができないのだろう」と、心の中では権利を主張した人を責めていた。人に嫌われないようにと、控えめな言動が身についていた私には、権利意識のかけらもなかったのだ。
仕事をやめて結婚したのも、シンドイ現実から逃げたかったからかもしれない。しかし、権利意識を身に着けていない私は、逃げ込んだはずの家庭の中でも、引け目や負い目、意見・価値観の違いなど、新たな苦しみから自分を守ることが出来なかった。職場で感じていた矛盾や悔しさ、不信感は、家庭での近所づきあいや家族関係の中にも容赦なく入り込んでくる。もう一歩のところで自分を主張できない私は、誰にも気づかれることなく、苦しみ、落ち込んでいった。
最近「KY」という言葉をよく聞く。
「空気が読めない!!」
テレビのバラエティでは、これが悪いことのようにからかわれ、嘲笑される。「空気を読み、場違いだと思えば言いたいこともがまんする」という生き方を選んできた私は、「KY」の風潮にやりきれなさを感じてしまうのだ。確かに空気を読むことは人間関係に必要だが、相手に合わせてばかりで、自分を主張しないことはいいことなのだろうか。私が苦しんできたこんな生き方を、多くの若い人に求めても本当にいいのだろうか。
そうではない。その場に合わせる、その人に合わせるということは、とても無責任でいいかげんなことなのだ。それは自分を裏切ることだし、同時にその人も裏切っていることなのだ。私が黙ってにこにこしていれば、その人は私に理解されたと思うだろう。しかし私は反対の意見を持っている……、そんな不誠実なことがあるだろうか。私は人にそんな態度をとられたくはない。私が悪ければ、その場で言ってほしい。空気なんか読んでほしくない。
日本共産党大分市議団の控室で仕事をするようになってからの8年は、大人の中に紛れ込んだ子どものように、ドキドキの毎日だった。
4人の議員たちは、それぞれの持ち味や得意分野で思う存分力を発揮し、新たな問題点やわからないことは直ぐに調べ上げ、お互いに支えあい協力しあう、本当にチームワークのとれた素敵な『ドラえもん集団』だと思う。(よその会派はどうなのかな?)
同時に誰に対しても対等・平等で、48万大分市民の応援団として活躍している。
最初の頃、わが議員団の紅一点『しずかちゃん』が、団長の『ジャイアン』に真っ向から反論する場面に出くわすことがあった。そんなとき私はひとりで冷や汗をかいていた。おろおろしながら片方の意見を聞いていると「そうだナー」と納得し、又違う方の意見を聞くと「なるほど。そんな考え方もあるんダ」と、あっちにもこっちにもうなずき、そんな自分がこうもりみたいでいやだった。
議員たちは、納得がいかなければ徹底的に議論する。けれど間違いや勘違いがわかれば、あっさり認め、バトルの後は何事もなかったように冗談を言ったりけなしあったり……
それは、批判でも口論でもなく大切なことや真実を追究する姿なのだ。そうやって、『住民が主人公』の大分を目指しているのだ。
相変わらず何も言えずそばにいるだけの私だけれど、8年間共に過ごす中で身に付けた意識と体の重さで、少しだけふてぶてしくなったような気がする。
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